FEATURE 150
スポーツクライミング日本代表HC 安井博志インタビュー
パリ五輪へ、勝負が始まる
2023年8月の世界選手権(スイス・ベルン)からパリ五輪の選考大会がスタート。勝負が始まるシーズン初戦を前に、代表ヘッドコーチの安井博志氏に五輪本番に向けた取り組み、代表選考基準などを聞いた。
※本記事は『ボルダージャパンカップ2023 大会公式プログラム』の掲載インタビューを再構成したものです。
3種目で躍進 2022年を振り返る
2023年の初戦を迎える、今の率直な心境を教えてください。
「いよいよ大切なシーズンが始まるな、という気持ちです。昨年の日本代表選手たちは過去最高と言っていいほどの成績を残してくれました。若手からベテランまでが刺激し合い、チーム内での競争力が育った1年でした。22年に蓄えた力を生かして、多くの日の丸が表彰台の真ん中に上がる。そんなシーズンにしたいと考えています」
正に昨年は多くの日本人選手が国際大会で活躍しました。各種目での日本勢の印象を、まずはボルダーから教えていただけますか。
「ボルダーは競技中の流れが悪くなったとしても、選手自身で立て直せるようなメンタル面での成長を感じました。予選落ちするかしないか、決勝で表彰台に乗るか乗らないかというきわどい場面で、日本人選手は食らいつけていました。また日本チームは世界で一番過酷な遠征をしています。日本から大会ホスト国までの移動距離、そこから時差調整して出場する。この繰り返しでタフになっていった。競技以外での成長も競技力向上に繋がったと感じています」
ボルダー男子年間ランキングでは緒方良行、楢崎智亜、藤井快の日本勢3人が上位を独占しました。彼らの存在は大きかったですか?
「相当大きかったですね。3人の存在感と、彼らの中での競争力がチーム全体に良い雰囲気を与え、それが他国へのプレッシャーにもなっていました」
ボルダー日本勢の課題はありますか?
「チーム全体ではなく、選手それぞれによるとしか言えません。ボルダーは幅広い技術、能力を求められます。『年間を通じて強い』と『一発勝負で強い』では求められる能力は異なります。一発勝負になった時に不得意なものがあることで、もうそこで順位を落とされてしまいます。どのような試合でも勝てる状況にできることが各選手の今後の課題です」
続いてリードの印象はいかがですか?
「驚くべき飛躍を遂げた1年となりました。まずは男子が年間ランキングトップ10に5人も入るという快挙を成し遂げ、本間大晴、百合草碧皇、森秋彩は初優勝を経験しました。特に森は絶対女王と言われるヤンヤ・ガンブレットを抑えて2戦2勝。世界中に相当なインパクトを与えられました。ガンブレットの非常に悔しそうな表情、森が出場する試合で見せる不安な表情は印象的でした」
リードがさらに伸びた要因をどう考えますか?
「リードは練習した分だけ結果に反映されやすい。高い強度の練習をしっかりこなせたこと、自信を持って強い気持ちで競技できたことが要因だと思います。試合の翌日でも『こんなに登るのか』と我われが心配するくらいです(笑)。努力の賜物ではないでしょうか」
スピードはどうでしょうか?
「ベストタイムだけを見ると世界で戦える基準の選手が現れてきました。しかし一発勝負となるとベストに近いタイムを中々出せません。単純なミスやメンタルで負けていることがありますので、さらに場数を踏んで、厳しい場面でも自分をどうコントロールしてベストな動きに近づけるかという部分をもっと高めなければいけません。昨シーズン終了後にはインドネシアで合宿を行い、世界トップチームの練習を体感できました。彼らは本番と同じ出力で、それをインターバル練習で何本もトライする練習を繰り返しています。練習のベースレベルの高さを思い知らされたのと同時に、世界トップとの差がはっきり確認できたという意味では、今後に向けて重要な時間になったと思います」
2023年は“臨機応変”に
パリ五輪への準備も進む
今シーズンからW杯の国別出場枠の規定が変更されました。昨年の日本代表の活躍はどう影響しますか?
「まず2023年冒頭の各種目世界ランキングトップ10以内の選手は、該当種目の23年W杯出場が確保できています。いわゆる個人に与えられるIFSC枠というものです。それに対して各国に与えられる各種目の国別枠はこれまでよりも減少し、各国で出場が保証されているのは2枠。そこに23年冒頭に発表される世界ランキング11位から40位の間に1人ランクインした国には+1枠、2人だと+2枠、3人以上だと+3枠が与えられる新ルールに変わりました。つまり国別枠の最大は基本2枠+追加3枠で合計5枠です。この国別枠で、日本はボルダー、スピードで最大枠を獲得できました。リードも4枠で、今年は日本が世界で最も多くの人数を送り出せるチームとなります。W杯開幕戦は八王子で行われます。開催国枠でさらに男女4人ずつが出場できますので、初戦からスタートダッシュをかけたいですね」
パリ五輪に向けた“ロードマップ”を考えた時、今年はどんな取り組みをしていきたいですか?
「五輪を目指す選手たちにとっては非常に重要なシーズンとなりますので、まずはケガや病気にかからないためのコンディショニングが重要となります。そして複合(ボルダー&リード)に挑む選手はW杯の出場大会数をどうするかが問題です。W杯の日程が詰まっている中で、例えばボルダーが得意でリードが苦手な選手は、どの大会に出てどこでうまくトレーニング期間を作り、8月の世界選手権へと向かっていくのか。これは各選手オーダーメイドでの対応になると思います。日本で最終調整していくのか、あるいは早めにヨーロッパに乗り込んで時差調整などをしていくのか。我われはプランA・B・Cなどに対応できる準備が必要です。コーチ陣と選手とで疲労度合いを確かめながらシーズンを戦っていきたいですね。ちなみにW杯の単種目制覇を目指す選手はまず全戦出場していく形になるかと思うので、チーム体制も目標が違う選手に対してグループが分かれていくような形になり、スタッフも含めて複雑な対応になると思います」
パリ五輪を目指す過程で、東京五輪の時と違いはありますか?
「この点は開催国が日本ではないということに尽きると思います。パリから南東に車で約2時間半移動した場所にトロワという小さな街があるのですが、この街を事前キャンプ地に決めました。視察しましたが、そこにはサッカーコート、BMXのコース、巨大な体育館など、複数競技に対応したナショナルトレーニングセンターレベルの施設があり、現在フランス最大級のクライミングセンターも建設中です。フランスに我われの拠点ができることで、五輪のみならず今後ヨーロッパを転戦する際に日本チームの強い支援となってくれるはず。昨年末に行ったフランスでの代表合宿でも訪れましたが、選手は『ここで練習できるんですね』『最高ですね』と話していて、五輪に向けたモチベーションがさらに上がったはずです。さらに合宿では、パリで建設中の五輪本番のスポーツクライミング会場と、パリ市内にあるクライミングジムも視察しました。調整で使用できる大手ジムのオーナーとも良い関係性を築き、『いつでも使っていいよ』と心強い言葉をいただきました。このようにパリ五輪でもホームゲームのような感じで選手たちがしっかりパフォーマンスを発揮できるよう準備しています」
8月世界選手権へ
鍵は五輪強化Sランク選考
着々と準備が進んでいますね。パリ五輪に向けて重要な今年の日本代表選考基準についても教えてください。
「昨年との変更点としましては、スピードの基準タイムを男女それぞれ0.5秒ずつ上げました。男子は6.20秒、女子は8.90秒をクリアすることが必要となります。ハードルを上げましたが、選手たちの成長を考え、世界で戦う日本代表を想定しますと、このタイムは必然です。ボルダー、リードはいい流れで来ていますから基準の大きな変更はありません。スピードもさらにレベルを上げて、世界と戦えるチームにします」
世界選手権やアジア競技大会といった大事な大会に優先派遣されるSランクを含むパリ五輪強化選手は、各ジャパンカップを経て第6期メンバーが決まります。
「複合については、現在のパリ五輪フォーマットはパフォーマンスポイントを採用していて、それぞれの種目のルートや課題のセッティング内容によって選手の順位が変わってきます。そういった意味では1大会の結果で五輪強化選手を選ぶことは難しいと考えています。そのため複合の最上位Sランクの選出には、1人はBJCとLJC(リードジャパンカップ)の各順位ポイントを足し算した数が最も大きい選手、1人はCJC(コンバインドジャパンカップ)の優勝者とし、Sランクに入るチャンスを複数大会に設定しました。例えばアジア競技大会(9~10月/中国・杭州)の複合には、この2選手を派遣することとしています」
そんな中で行われるBJCは、有観客の東京開催としては3年ぶりとなります。観客の方々に期待したいことは何でしょうか?
「とにかく競技を楽しんでいただきたいです。日本代表権の懸かる選手たちは様々な不安やプレッシャーを抱えながら競技に臨み、そして目の前の難解な課題と全力で戦います。限られた競技時間内での一瞬一瞬の動きだけでなく、心の動きも感じてほしいですね。大会は単なる競争ではありません。勝負の世界は厳しく難しいものです。この筋書きのないドラマを会場で観ていただき、世界最高峰のパフォーマンスを通して競技を楽しんでいただけるとうれしいです」
最後に今シーズンの目標を教えてください。
「パリ五輪の出場最大枠を取ることが最大の目標です。その中で最優先とすべき大会は世界選手権。ここで五輪出場権を逃した場合でも、アジア大陸予選(11月/開催地未定)で獲得することが重要です。とにかく五輪の参加枠を早く埋めたいと思っています。もう1つは、アジア競技大会でメダルを獲ること。さらにはW杯で年間チャンピオンを狙える選手を輩出しつつ、国別ランキングも1位を目指すこと。多くの目標を掲げていますが、今の日本チームはすべて達成可能だと思っています。このような高い目標を持って、今シーズンを戦っていきたいと思います。選手たちへの応援よろしくお願いします」
CREDITS
取材・文 編集部 /
写真 窪田亮 /
協力 JMSCA
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PROFILE
安井博志 (やすい・ひろし)
1974年12月29日生まれ、鳥取県出身。元高校教諭で2002年の山岳部創設に伴い指導者として活動開始。08年よりJMSCAに所属し、09年からユース日本代表コーチ、16年からボルダー日本代表ヘッドコーチ、17年から日本代表全体のヘッドコーチとJMSCA強化委員長を務める。21年6月からは理事も兼任。(写真:牧野慎吾)