FEATURE 135

独占インタビュー

樋口純裕 29歳、負けず嫌いが挑む「2024」


29歳の誕生日を3日後に控えたW杯36戦目。17歳での初出場から10年以上戦い続けてきた男が初の頂点に輝いた。負けず嫌いで闘志を燃やす樋口純裕も、2024年を競技人生の集大成として捉えている。

※本記事の内容は2021年12月発行『CLIMBERS #022』掲載当時のものです(インタビュー収録日:2021年11月30日)
 
 
まずはW杯初制覇となった2021年9月のクラーニ大会優勝、おめでとうございました。予選16位ながら準決勝を1位通過しての頂点でした。

「ありがとうございます。本当に自分が優勝したのかという感じで、あまり実感が湧きませんでした。予選16位だと(26人が進出する)準決勝の競技順が前半で先行逃げ切りとなり、後追いが好きな僕は少し嫌だと感じましたが、直前に登った吉田智音くんが声を出して頑張っていて、揺れてるヌンチャクの高さを見て『これは自分も頑張らないと』と気合を入れ直したら、結果的に1位で決勝行きが決まりました」

決勝は核心となったアンダーからの一手を突破し、2位に約6手差をつけての戴冠でした。

「海外では観客のリアクションが大きく、要所を越えると歓声が沸いて何となく成績がわかるんですけど、その一手を止めた時に『え、ここ?』という感じで、優勝するラインはもっと上にあると思っていました。ファイナリストの半数以上は決勝慣れしていない選手で、その中で僕はある程度の勝負強さを出せたと思いますし、下部に悪いところや強い出力を要求されるパートがあったのですが、そこでひるまず積極的に登れたことが優勝の一番の原動力になったと思います」

リードW杯においては出場36大会目での初優勝となりました。その道のりは長かったですか?

「初出場したのが17歳だったので、今思い返せば確かに長かったですね。最近の若い選手はいきなり決勝に行ったりするので、それを見ていると自分はずいぶん時間がかかったなと思うところはあります」

 

2021年のクラーニ大会で初めてW杯表彰台の頂点に立った

樋口選手がリードをメインとされている理由を教えてください。

「IFSC(国際スポーツクライミング連盟)がケガ防止の観点などでユース大会にボルダリングを種目採用していなかったこともあり、僕のユース時代のコンペはリードがほとんどでした。その後にボルダリングが採用され一般的にも盛り上がってきたと同時に頑張り始めたんですけど、どうしても成績が残せているのはリードになってしまいます」

2021年はリードW杯全5戦に出場し、決勝に3度進出、年間ランキングでは自己最高の3位と躍進のシーズンになりました。以前と比べて練習方法などに何か変化はありましたか?

「2019年の代表落ちで『何かを変えなければこの先はないだろう』と、リードメインからボルダリングメインの練習に変えました。リードはどうしてもビレイヤーの存在が必要で確保するのにひと手間かかってしまうこともあり、その日の練習をためらってしまうことがたくさんあったんです。ボルダリングの練習と言っても、40手、50手ほどのナガモノで持久力をつけるトレーニングを意識的に行いました」

リードの“ボルダリング化”も影響しましたか?

「それもありますね。以前のリードと言えば小さいホールドをどれだけ握り込めるかに重点が置かれていましたが、近年はボルダリング同様に大きなホールドを使い見栄えを良くして動き自体も大きなものに変わってきています。1ムーブあたりの適した出力を出すにはボルダリングの練習をしていたほうが効率は良いですし、強度の高い動きをどれだけ連続してできるかが今のリードで勝つには重要だと思います」

20代後半になるにつれてコンペの舞台から退く選手もいる中、29歳となった樋口選手はどのような想いで競技を続けていますか?

「コンペに対する思い入れが強いかと聞かれたら自分でもよくわからないんですけど、でも出続けることで前よりも強くなったと思える時があり、その積み重ねでここまできた感じでしょうか。(藤井)快やステファノ(・ギソルフィ)といった同年代のすごい選手たちとようやく張り合えるようになってきたと感じています。リードと言えばこいつだよなと思われるクライマーでありたいですし、あの優勝で終わったよなとは言われたくないので、これからも日本代表に居続けたいですね」

 

クラーニ大会優勝後、自身のInstagramで「後輩たちは本当にすごい選手ばかりで、僕からは直視できないほど眩しい存在だった。そんな彼らの横で国際戦ではいつまでも成果を出せず、いつも自分に失望していた。あの頃見ていた未来は暗かった。それでも日本代表で居続ける努力をすることを選んだ」と綴られていましたが、その努力を選んだ理由とは?

「単純に自分より年下のやつに『負けたくねぇな』と思ったから。昔からそうですけど、勝てばうれしいし、負ければ泣くほど悔しがっていたので。その負けず嫌いの性分がコンペをやめるという選択を許さなかったんだと思います。僕が代表になった頃は日本男子がリードで勝つことは少なく、自分が勝てなくてもしょうがないかと惰性のような感じで代表戦に行っていました。自分が大学生か社会人になった頃に後輩が台頭してきたことで本気で頑張ろうと思えた。でもそこからの5、6年は国際大会で結果を残せずつらかったですね」

印象に残っている当時のエピソードはありますか?

「2016年のW杯ヴィラール大会で僕と快、(年下の是永)敬一郎が決勝に残りました。このメンツの中で負けるわけにはいかないと思い挑んだんですけど、結果は僕が7位で敬一郎が2位。ただの数字以上に表彰台に乗る乗らないの勝負で負けたことがすごく悔しくて、その時は(おめでとうの)声をかけてあげられないくらいでした。あれは自分に火を点ける出来事の一つでしたね」

2024年パリ五輪の出場は目指しますか?

「もちろんです。注目度がW杯や世界選手権とはまったく違う東京五輪を観戦して、あそこでスポットライトが当たるのが自分だったらという想像を何度かしましたし、次こそはあの場に立って試合をしたいという想いを抱きました」

パリ五輪は3種目複合だった東京五輪からボルダリング・リードの2種目複合とスピード単種目に分かれて行われます。

「3種目複合に向けてみんなが一斉にスタートした時は僕にも可能性があると思っていたんですけど、次第にスピードのタイムをどんどん伸ばしていく選手がいて、自分は厳しいのかなと半ばあきらめていました。そのスピードが外れたことで自分にもチャンスがあると感じています。ボルダリングが得意とはまだ言えませんが、東京五輪の時よりも現実味のある『出たいと思います』が言えますね」

10月には2021年の活躍が認められ、地元・佐賀県から「SSPトップアスリート」に認定されました。

「よくわからず認定式に行ったら、県の偉い方や最終的には県知事も出てきて、これはすごいことなんだなと(笑)。報奨金をいただけるので、ありがたい限りです。2024年はパリ五輪の後に佐賀で国民スポーツ大会もあります。生まれ育った佐賀で下手なことはできないので、パリで金、佐賀で凱旋優勝できればいいですね」

最後に、今後の意気込みを教えてください。

「そこで競技人生を終えるつもりはないですけど、2024年は一つの集大成にしたいです。もう2年半後にはパリ五輪が迫ってきています。僕自身ボルダリングの強化が急務だと思っているので、ある程度道のりも見えています。しっかりと自分のやるべきことに向き合い、取り組んでいきたいと思います」

CREDITS

インタビュー・文 編集部 / 写真 © Jan Virt/IFSC

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PROFILE

樋口純裕 (ひぐち・まさひろ)

1992年9月7日生まれ、佐賀県出身。高校登山部顧問の父親の影響で3歳頃に岩場でクライミングと出会う。クライミングジムPUMP系列を運営するフロンティアスピリッツで現在も仕事を続ける傍ら競技にも注力。リードを得意とし、2021年クラーニ大会でW杯初優勝、年間3位に輝いた。

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