FEATURE 120

プロローグの一部を特別公開

『私とクライミング 野口啓代自伝』


現役最後の舞台と位置づけた東京2020オリンピックを前に、野口啓代がその激動のキャリアを振り返る初の自伝を上梓。日本のみならず世界を牽引してきたクライミング界の女王は、次々と現れる人生の「壁」をどのように乗り越えてきたのか。“クライマー・野口啓代”のすべてがここに――。刊行を記念して本書「プロローグ」の一部を特別公開する。

プロローグ
そして五輪へ―― 2019年8月、最後の世界選手権

 
勝負カラーの赤いリボン
 
 8月10日(土)、IFSCクライミング世界選手権2019の開幕前日。
 自宅で大会10日間分の荷造りをしているときだった。国内の大会でこんなに大荷物になることなんて今までなかったな、とそんなことを思いながら諸々の荷物を一つひとつキャリーケースに詰めていた。
 そのとき、あることに気がついた。
 
「あれ、ない! ウソ、どうしてないの!」
 
 赤いリボンがないのだ。
 2019年シーズンが始まる前、大好きなシャネルさんから私の勝負カラーである赤いリボンをプレゼントしていただいた。私はここぞという勝負の大会でのみ、そのリボンで髪を結んで試合に臨むようにしていた。
 シーズンそれまでに使ったのは、いずれも準優勝を果たしたボルダリングワールドカップ開幕戦のマイリンゲン大会(スイス)と第2回コンバインドジャパンカップの決勝の2試合。結んだときは良い結果を出すことができ、私にとって大事な願掛けとなっていた。その相棒とも言える赤いリボンが見当たらないのだ。
 最後に着けたのが5月のコンバインドジャパンカップだから3カ月は目にしていなかった。それでもいつものところにしまってあるはずだった。焦った私は家中を探し回った。それでもない。どこにもない。
 
「どうしてないのよ、もう!」
 
 この日は前日記者会見に登壇する予定なので、こうしてずっと探しているわけにもいかなかった。リボンはどうしても見つからず、とりあえず自宅を出て八王子のホテルに向かうことにした。
 赤いリボンはコンバインド決勝で必ず着けると決めていた。だからどこかのタイミングで取りに帰らなければいけない。そんなタイミングがあるのかわからないけれど、それほど私にとっては大事な願掛けなのだ。
 しかし、やっぱり大会期間中は家に帰るタイミングはなさそうだった。私は仕方なく妹に赤いリボンの写真を送ってお願いした。
 
「この赤いリボンがどこかにあるから私の家中探して持って来て!」
 
 なくすわけがない。必ず家のどこかにあるはずなのだ。すると妹から意外な返事が返ってきた。
 
「あれ、そのリボンなら実家で見たよ」
「えー! 実家で? どうして!?」
 
 実家でリボンを着けた覚えはない。なぜそんなところにあるのか見当もつかなかった。それから私はすぐに母に連絡をした。
 
「それなら家にあるわよ」
 
 だからなんで実家にあるのということは今はさておき、とにかく大事な赤いリボンが見つかったことに安堵した。コンバインド決勝を観戦に来る予定の両親に、当日のアイソレーションルームがクローズする前に持って来てもらうようにお願いした。
 
決戦前の家族との時間
 
 8月20日(火)、女子コンバインド決勝当日。
 アイソレーションルームが14時半にクローズするので、母には14時に裏口に来てもらった。母と一緒に父と弟も来ていた。大会中、家族と会えたのはこれが初めてだった。
 そこで母が持って来た赤いリボンを結んでくれた。そのときふと、母に髪を結んでもらうのなんていつぶりだろうと、そんなことを考えていた。それこそ小学生のとき以来じゃないだろうか。懐かしいなあ、この感じ。そう思うと、急に涙が込み上げてきた。
 
「いけない。これから本番なのにこんなことで泣いている場合じゃないよね」
 
 私は涙をぐっと堪えた。普段はこんな感傷的にならないのに、このときばかりはそれだけ気持ちが昂っていたということなのかもしれない。
 最初はなんでリボンが実家にあるのかと、意味がわからず苛立つこともあった。でも、そのおかげで思いがけず家族との時間を作ることができた。それほど会話は多くなかったけれど、家族の顔を見られただけで私は昂った気持ちを少し穏やかにできた。
 
「それじゃあ行ってくる」
「頑張ってね」
 
 父と短い言葉を交わして握手をし、赤いリボンで髪を結んだ私はアイソレーションルームに向かった。ほんの数分だったが、私にとって大事な家族との時間となった。
 
ボルダラーとしての矜持
 
 コンバインド決勝が始まると、第1種目のスピードはやはり一筋縄ではいかなかった。
 私は初戦で(野中)生萌と対戦した。お互いスタート直後にミスをして、やっぱり緊張は隠し切れなかった。すぐに立て直し、上部に到達するところで生萌がもう一度ミスをしたのが見えた。そのことにほんの一瞬、意識が向いてしまった瞬間、私も右足をスリップしてしまった。
 そして次の瞬間には生萌がゴールパッドを先にタッチしていた。勝利が目前で滑り落ちていき、私は思わず頭を抱えた。スピードは一瞬の気の緩みがミスに繋がる本当にシビアな種目なのだ。十分わかっていたはずなのに、その一瞬の隙を見せてしまった。
 最近のコンペではずっと9秒台を安定して出せていた。それを発揮できていれば勝てたレースだった。やはり決勝の緊張感、プレッシャーの大きさを痛感せざるを得なかった。結局、スピードの順位は8人中の7位。お世辞にも良いスタートとは言えなかった。
 ただ、決勝メンバーの持ちタイム順で見れば私は6番手。7位というのは想定の範囲内で落胆することはなかった。
 スピードが終わってから選手がアイソレーションルームに戻る時間はなく、第2種目ボルダリングの競技開始を壁の裏で待っていた。
 その間、コンディショニングトレーナーの有吉与志恵さんが作ってくれたレモンの蜂蜜漬けを口にしながら静かに集中を高めることにした。前日のコンバインド予選のボルダリングでは思うように集中ができず、良いパフォーマンスが出せなかった。そのことを有吉さんに相談すると、決勝前に疲労回復やリラックス効果のあるレモンの蜂蜜漬けをタッパーに入れて持って来てくれたのだ。
 有吉さんに「これ食べたら集中できるからね」と言われていたからだろうか。いや、集中は高めようと思わずとも自然と高まっていた。
 なぜなら、私の本当の勝負はここからなのだ。
 
 大会前から次のボルダリングで1位を取れるかどうかが、私にとって一番の勝負どころだと思っていた。
 コンバインドで優勝するためには、スピードの順位をボルダリングでの1位で挽回するしかない。もちろん、それが簡単ではないことは百も承知だ。それでも私には順位の挽回以外にも勝ちたい理由があった。
 2019年シーズン、出場したボルダリングワールドカップではすべて2位、年間総合でも2位だった。そして7日前の世界選手権ボルダリング単種目でも2位。そのすべてで1位をヤンヤ(・ガンブレット)に奪われてきた。どの大会でもヤンヤに勝てなくて、2位はすっかり私の定位置となっていた。
 私の長いキャリアの中でもこれほど強い選手は他にいなかった。間違いなく、彼女は歴代でも最強の女子クライマーなのだ。
 そんなヤンヤに、私はこの大一番で勝ちたかった。もちろん、ショウナ(・コクシー)や生萌など、これまでワールドカップや世界選手権で何度もしのぎを削ってきた本当に強いクライマーたちもいる。
 そんな彼女たちがいる中で、私はどうしてもボルダリングで1位が取りたかった。
 コンバインドで優勝するためというだけではない。やはりこの種目の1位は譲れない。譲りたくない。それがボルダラーとしての私の矜持なのだ。
 そのためには、私はキャリア最高のパフォーマンスをここで発揮する必要がある。大会前に何度も口にしてきた“集大成”という言葉を、私はもう一度心の中で噛み締めた。
 すると、スッと気持ちが入っていくのがわかった。
 スピードの前に感じていた緊張やプレッシャーはもう微塵もなかった。私は登る前からわかっていた。今シーズン、いや、約20年のクライミングキャリアの中でも、今が一番良い状態であるということを。
 私の集中は極限まで研ぎ澄まされていた。
 
シーズン初めての1位
 
 ファイナリストが順番に決勝の舞台に呼ばれ、満員の観客の声援に応えていく。2番目にコールされた私は、暗転した客席に手を振りながらゆっくりと指定の位置まで歩いた。独特の緊張感が私の集中をより研ぎ澄ませていく。最後8人目のアレクサンドラ(・ミロスラフ)が登場すると、すぐにオブザベーションが始まった。
 
「けっこう遠いな……」
 
 第1課題のスタートのコーディネーションは難しくないとすぐにわかった。だが、その後に掴むカチホールドの距離が思いのほか遠かったのだ。8人の中では身長が高くリーチのある私でさえ、そう感じるほどだった。TOPホールド一手前のカチも塞がれていて、TOPホールドをうまく持てるかどうかわからなかった。
 ワールドカップでもこれほど掴むのが難しい課題はそうそう出てこない。それがまさかコンバインドの決勝課題で来るとは想像もしていなかった。それでも登るイメージはできていた。
 第2課題をパッと見たとき、どう登ればいいのかわからなかった。よく見ると大きなハリボテのポケット側にチョークが付いていた。
 
「そこを抑えるのかもしれない」
 
 そう思っていると、ハリボテの奥に右手、左手と続けて飛ぶんじゃないかと話している選手もいた。そばにいた生萌や(伊藤)ふたばちゃん、ヤンヤ、ショウナなど、どの選手に相談してもみんなムーブを判断しかねていた。これはもう登ってみなければわからなかった。
 第3課題は、スタート後のノーハンドのスラブは問題なし。それよりもゾーンを越えて、ガストンで上がった先にあるアンダー部分に小さなビスが付いていた。これがとにかく掴みづらそうだった。そのビスをどちらの手で掴むべきか、クロスで入るのか、いろんなことを想像した。他の選手もここが核心と定めて入念にオブザベーションをしている。みんな考えていることは同じだ。勝負はゾーン後の上部核心で間違いない。
 オブザベーションの時間が終わり、3課題とも難しくはない印象だった。アテンプト勝負で、取りこぼしは許されない展開になると思っていた。全選手が壁の裏に戻り、競技がスタートすると、2番手の私の順番はすぐに回ってきた。
 
 第1課題は距離の遠さはあったものの、イメージ通りに一撃できた。そのあとヤンヤが思いがけず完登を逃した。ただ、少しも油断はできなかった。これまでもこういう展開でヤンヤは必ず逆転してきたのだ。でも、間違いなくこれはチャンスだった。
 私はとにかく第2課題に集中した。ここで完登できれば、難しい第3課題を前に決定的な差をつけることができる。ここで勝ち逃げしよう。このチャンスを逃すわけにはいかない。そう思っていた。
 オブザベーションで攻め手が見出せなかった第2課題は、1トライ目のスタートに失敗した。でもそのあとトウフックから右手でポケットを掴むムーブがわかると、すぐに立て直して完登できた。TOPを両手で掴んだ瞬間、嬉しさのあまり私は思わずホールドを叩いて喜びを爆発させた。これでいける、と1位を確信した瞬間だった。
 そして第3課題。完全に誤算だった。私の前を登る(森)秋彩ちゃんは私よりもスラブの得意な選手だった。その秋彩ちゃんが、登っているときの会場の雰囲気から苦戦しているのがよくわかった。その時点で嫌な気配を感じていた。
 オブザベーションでは簡単だと思ってほとんど飛ばしていたスタート直後のスラブがまったく攻略できなかった。ゾーン後が勝負だと思っていたのに、結局ゾーンも触ることができずに終わった。でもおそらく、あとに登る選手もこれは厳しいはずだ。そう思うほど難しく、落とし穴となる課題だった。
 案の定、誰もゾーンを触れずに終わり、第2課題までのリザルトで勝負はついた。
 
 私はこのシーズン初めてボルダリングで1位になれた。そして、ようやくボルダリングでヤンヤに勝つことができたのだ。
 単種目ではなく、コンバインドでのボルダリングだったが、そんなことは関係なかった。正直、私の実力ではもうヤンヤにはずっと敵わないのかと思った時期もあった。それだけたくさん負けてきて、散々悔しい思いをしてきた。
 この1位でその悔しさを少しは晴らすことができたと思う。でもそれ以上に、私はまだヤンヤにも勝つことができる。そのことが嬉しかった。そしてなによりこのプレッシャー下で、シーズンの中で一番良い登りができたことが本当に誇らしかった。(続く)
 
 

 
全クライマー必読! トップであり続けた先駆者の流儀と半生
全国書店、ネット書店で発売中!
https://amzn.to/3pfukrE
 
<書籍情報>
『私とクライミング 野口啓代自伝』
定価:1,760円(税込)
発行:ソル・メディア
発売日:2021年7月13日
仕様:四六判/並製/304頁
ISBN:978-4-905349-57-0

CREDITS

写真 窪田亮

※当サイト内の記事・テキスト・写真・画像等の無断転載・無断使用を禁じます。

PROFILE

野口啓代 (のぐち・あきよ)

1989年5月30日生まれ。世界中から尊敬を集める女性クライマーのパイオニア。小学5年生の時に家族旅行先のグアムでクライミングに出会い、それから1年で全日本ユース選手権を制覇。以降、国内外の大会で輝かしい成績を残し、2008年には日本人としてボルダリングW 杯で初優勝。さらに09年、10年、14 年、15 年と年間総合優勝を果たし、W杯優勝は通算21勝を数える。19年の世界選手権で2位となり、東京2020日本代表に内定。現役引退の舞台と公言した五輪でメダル獲得が期待される。TEAM au 所属。

back to top