FEATURE 39

平山ユージのSTONE RIDER CHRONICLE

[第5章]人生最高の宝物、「サラテ」オンサイト・トライ

何より、平山ユージが一番面白いことをしていた時間

一人の山好き少年が“世界のヒラヤマ”になるまで――。平山自身が半生を辿る特別連載の5回目は、あれがあるから今がある、90年代半ばの激闘の記憶。

※本記事の内容は2018年3月発行『CLIMBERS #007』掲載当時のものです。
 
 
 もう20年が経ったけれど、あの日を超える狂熱は味わっていない。一生に一度の経験であり、クライマー・平山ユージの代名詞となったチャレンジ。ヨセミテ「サラテ(5.13c)」のオンサイト・トライである。
 
 ただし、それに至る道は一直線ではなかった。1991年夏、フランソワ・ルグラン(前章参照)との同居生活を終えた僕は、以降も南仏エクス・アン・プロヴァンスのアパートに残ってクライミングに精を出していた。活動の中心はコンペ。目指すは「世界一」。しかし92、93年とワールドカップ年間優勝の座はそのルグランに防衛され、満たされぬ日々が続いていた。94年はコンペで優勝なし。何かを変えたかった。そこで思い立ったのが、かつて17歳の自分を変えてくれたアメリカ行きだった。
 
 95年6月、9年ぶりに訪れたかの地で僕は「スフィンクス・クラック(5.13b/c)」のオンサイトを成し遂げる。欧州では離れていたトラディショナルなスタイルに立ち返った旅で、正直“たまたま成功できた”大きな成果。だが、世界最難度の一つと言われるルートを誰一人やっていなかったオンサイトで完登したのである。その時、僕はクライミングへの情熱を取り戻せたような気がした。コンペに勝ち切れない数年で、いつしか追い求めるものがボヤけていた自分。それでも、何度か気持ちが切れかけながらも続けてきた9年間は、決して無駄じゃなかったんだ。
 
 こうして欧州に帰った僕には、すぐさま次の目標ができる。ある日、雑誌の片隅で見かけた「サラテ」フリー化(それまでエイドクライミングだったルートを初めて人工的手段を頼らずに登ること)の記事。その核心部の写真を見た時、閃くものがあった。“これもオンサイトできるんじゃないか”。前人未到、というか、国内外の仲間から「なんであんな馬鹿なことしたの?」と言われたように、常人なら発想すること自体あり得ない無謀な挑戦。1100mもの大垂壁に5.10〜5.12のグレードが続出し、その後で5.13c、5.13aのラインが現れる。オンサイトすれば、まさに歴史が変わる。だが、「スフィンクス」を乗り越えていた僕には確かな自信があった。積み重ねてきた練習が体力面の不安も消し去ってくれた。
 
 一世一代のトライが実現したのは、2年後の97年9月。結果から言うと、オンサイトには失敗。しかし、その2日目に臨んだヘッドウォールでたった2回落下しただけでレッドポイントを達成した。この濃密すぎる2日間の記録は、羽根田治さんが2004年にまとめてくれた『ユージ ザ・クライマー』(山と渓谷社)を読んでもらいたいが、あの時は“俺に不可能はない”というほど覚醒していた。地上なら100回以上も弱音を吐いていたと思うけれど、30数時間も集中力は切れず、かつてないほどの疲労と筋肉痛にも負けず、最後は雪が降る悪天候の中で頂に到達した。自分の全能力を出し切った(実際、1カ月くらい廃人状態だった)あのクライミングは、人生最高の宝物だ。何より、平山ユージが一番面白いことをしていた時間。そういう常識を超える人間、現れてほしいな。
 
~第6章へ続く~

CREDITS

取材・文 編集部 / 写真 永峰拓也

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PROFILE

平山ユージ (ひらやま・ゆーじ)

10代で国内トップとなり渡仏、98年(日本人初)と00年にワールドカップ総合優勝を達成する。02年にクワンタム メカニックルート(13a)オンサイトに成功、08年にヨセミテ・ノーズルートスピードアッセント世界記録を樹立するなど、長年にわたり世界で活躍。10年に「Climb Park Base Camp」を設立した。

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