FEATURE 38

平山ユージのSTONE RIDER CHRONICLE

[第4章]宿命のライバル、ルグランとの出会い

今の僕があるのは間違いなく、この不世出のクライマーが傍にいたから

一人の山好き少年が“世界のヒラヤマ”になるまで―― その半生を平山自身が辿る連載4回目は、20歳のプロ宣言後ユージが欧州で強烈に意識した、偉大な男との思い出。

※本記事の内容は2017年9月発行『CLIMBERS #005』掲載当時のものです。
 
 
 世界一のプロクライマーを目指す――約1年の欧州遠征を経て1989年5月31日、東京の実家で「プロ宣言」した僕の視線は、再びヨーロッパに向いていた。3カ月後に渡欧すると、当時の世界最高峰コンペ、イタリア・アルコ『ロックマスター』に参戦し(10位)、10月のドイツ・ニュルンベルク『フランケンユーラ国際シュポルツクレッテラーカップ』で国際コンペ初優勝。各国の強豪、憧れの「スター」たちに勝った衝撃は大きく、さらに同年創設のワールドカップ(W杯)など2戦に挑んだ僕は、プロとして“やれる”手ごたえを掴んでいた。同時に実感したのがコンペの価値。「世界一を目指す」にはこれからの時代、外岩での実績だけでなく大会にも出て自分をアピールすべし。そしてその道に多大な影響を与えたのが、フランソワ・ルグランとの出会いだった。
 
 彼は1歳下のフランス人。前述のドイツで再会(初対面は前年の岩場だった)した際、大会後のパーティーでずっと語り合っていたのを覚えている。親元を飛び出した者同士。掲げる夢はともに世界一。彼はこうと決めたらトコトン突き詰める完璧主義者で一匹狼タイプだったが、不思議とウマが合った。何より、その熱きクライマー魂が共鳴したわけだ。若さゆえのノリも手伝って意気投合した僕らは90年1月、南仏エクス・アン・プロヴァンスのアパートで共同生活を始めることになる。
 
 それからは近郊の岩場に通い詰め、家に戻ればリビングに手作りした当時では珍しい人工壁で猛特訓する毎日。本当に100%、クライミングに集中していた2人の間には常に張り詰めた空気が存在した。その甲斐あって、さっそく同年のコンペから成果が出始める。だが、「才能が開花した」と言えたのはフランソワの方。『ロックマスター』制覇をはじめ次々に好成績を収めると、なんとW杯総合優勝まで成し遂げたのだ。「いつか年間王者になろうぜ!」。そう語り合っていた相棒が、あっという間に頂点へと上り詰めてしまった現実。7位だった僕はただただ、悔しかった。焦っていた。実際、その秋頃からは一緒に練習することさえなくなった。同じ夢を抱く仲間から、強烈に意識するライバルへ――。関係が変化した僕らの二人暮らしは91年夏、終わりを迎えた。
 
 以降、22歳となっていた僕は9月の『ロックマスター』で初優勝を飾り、W杯の後半戦でも優勝1回、準優勝2回を記録して年間順位を2位に上げる。しかし、王者はまたしてもフランソワ……。2人の仲が元に戻るのは、別居後1年ほどが経ってからだった。自身の成長も実感し、少し大人になった僕が、彼を“素晴らしきライバル”と認めることができた頃だ。フランソワは続く92年、93年もW杯を制し、その後も優勝1回、準優勝3回を達成。90年代はまさに彼の時代だった。その間、僕は後塵を拝し続けたわけだけれど、今の自分があるのは間違いなく、この不世出のクライマーが傍にいたからだった。
 
~第5章へ続く~

CREDITS

取材・文 編集部 / 写真 永峰拓也

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PROFILE

平山ユージ (ひらやま・ゆーじ)

10代で国内トップとなり渡仏、98年(日本人初)と00年にワールドカップ総合優勝を達成する。02年にクワンタム メカニックルート(13a)オンサイトに成功、08年にヨセミテ・ノーズルートスピードアッセント世界記録を樹立するなど、長年にわたり世界で活躍。10年に「Climb Park Base Camp」を設立した。

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