FEATURE 129

TOKYO 2020 REVIEW

[岡野寛×植田幹也]東京五輪セッターに聞く熱戦の裏側


東京五輪で熱戦を繰り広げた選手同様、ルートセッターも並々ならぬ想いで初の大舞台に臨んでいた。余韻の残る8月、クライミング情報を発信するブログ『Mickipedia』管理人の植田幹也氏と、IFSC(国際スポーツクライミング連盟)から派遣された唯一の日本人セッターとして女子リード課題を手がけた岡野寛氏の対談を実施。セッター目線、クライマーとしての観戦者目線で語られた五輪談義の模様をお届けする。

※本記事の内容は2021年9月発行『CLIMBERS #021』掲載当時のものです。
 
 

「開催されて良かった」
集まった選りすぐりのセッターたち

 
植田 岡野さん、本日はよろしくお願いします。まずはルートセッターとして携わった東京五輪、お疲れ様でした。大会を終えた今の感想を教えてください。
 
岡野 とにかく、大会が開催されて良かったというのが一番素直な感想です。選手や私たちセッターは開催を望んでいましたが、いろいろな立場の人が関わっている大会なので開催するにあたり多くのハードルがありましたから。
 
植田 岡野さんはIFSCの国際資格を持つ日本では数少ないセッターとしてW杯など大きな大会での経験が豊富ですが、五輪という舞台にはこれまでと違う想いがありましたか?
 
岡野 五輪にセッターとして関われる人は限られているので、決まった時は本当にうれしかったです。プレッシャーもありましたが、その中でなんとか無事に仕事を終えることができてホッとしています。むしろ大会の規模があまりに大き過ぎて、逆によくわからなくなってワクワクのほうが強かったのかもしれません(笑)。
 
植田 東京五輪に関わったセッターは他にどのような方がいたのでしょうか?
 
岡野 セッターチームは大きく3つに分かれ、まずITOというIFSC派遣の国際ルートセッターチームが基本的にはルートを作ります。リードのITOは私の他にチーフのアダム・プステルニク(ポーランド)とヤン・ツブラネク(チェコ)がいて、合計3人でした。ボルダリングでもITOが4人います。さらにNTOというJMSCA(日本山岳・スポーツクライミング協会)派遣のセッター陣もいて、ITOをサポートし本番のルートセットに携わるチームと、練習用ルートを作るチームに分かれていました。ITOとNTOすべて合わせると17、18人になります。
 
植田 大所帯ですね。岡野さんがITOに選ばれた経緯を教えてください。
 
岡野 2019年11月に、IFSCから東京五輪のセッターに選ばれたと突然メールが来ました。IFSCにはルートセッター委員会があり、毎年W杯に派遣するセッターを決めています。委員会ではセッターを様々な項目で評価しているので、その評価をもとに近年アクティブに大会に関わっているセッターの中から選ばれたのだと思います。
 
植田 いきなりメールが来たのですね! つまりは最前線で活躍する選りすぐりのセッターメンバーということですよね。チームが決まった後は本番までどのような準備をされてきたのでしょうか?
 
岡野 2020年2月に定例集会でIFSCの本部があるイタリア・トリノに向かい、五輪のセッターチームで今後のスケジュールなどを確認しました。その後はメールやオンラインで1、2カ月に1回のペースでやり取りを続けていましたが、ルート内容を事前に決めることはありませんでした。本番の1カ月半前にほとんどが東京五輪のセッターメンバーで構成されたW杯インスブルック大会を経験したので、そこで選手のレベルを測ったり、チームとしての予行演習ができました。
 
 

テーマは「容赦しない」
3倍の時間をかけたリード課題

 
植田 本番のルートセットのことを伺います。全体を通じたテーマなどがもしあったならぜひ知りたいです。
 
岡野 リードのテーマは一言で表すなら「容赦しない」でした。これはチーフのアダムが強く意識していたことで、完登が出なくてもいいからとにかく誰が一番リードで強いのか、純粋に決めたかったのです。本番のルートはインスブルック大会よりも明らかに難しいことはわかっていて、NTOセッターとも「完登はおそらく出ないだろう」と話していました。
 
植田 「容赦しない」ですか、良いですね。結果として完登はずっと出ず、最後の最後にヤコブ・シューベルト(オーストリア)が男女を通じて唯一完登したのみでした。
 
岡野 下部から厳しいセクションが続いたので、選手の高度もうまくばらけました。五輪で初めてのスポーツクライミングでしたので、完登させたほうが良いとか、接戦が期待されているとか、いろいろ考慮すべきか悩みましたが、セッターチームとして厳しいスタンスを変えなくて良かったです。また、私はチーフのアダムと一緒に女子を担当して、「スピード感」を重視しました。単に速く登らせるということではなく、選手が同じところに長く留まっていられず追い込まれていく状況を作り、その中で選手がどんなパフォーマンスを発揮するかが見たかったのです。なので、ちょっとでもレストできそうな箇所は潰していきました。
 
植田 選手が追い込まれていく様子は見ていて感じましたし、上位選手が登っている時でも安心できない内容で見ごたえがありました。全体的にルートが蛇行していて壁を大きく使った印象がありましたが、このあたりは意識されていましたか?
 
岡野 リードの手数は、だいたい45手くらいは欲しいです。今回の壁の高さは16m程度で、ストレートアップだと45手にはなかなかいかないので蛇行させたというのはあります。また、五輪ではあれだけ広大な壁に1つだけセットされたルートを選手や視聴者は見るので、ビジュアル的にも横に広く使ったほうが良いと判断しました。
 
植田 選手が登っている時、セッターはどんな気持ちで見ているのでしょうか?
 
岡野 基本的にはセッターが一番盛り上がっています(笑)。自分たちがセットしたルートを選手がどう登るかは、楽しみなものです。
 
植田 五輪であるがゆえに何か心境が違った部分はありましたか?
 
岡野 今回はセット期間がW杯などよりも長く、1ルートにかける時間がたっぷりありました。全体で考えれば、W杯だと5日間で男女の予選・準決勝・決勝で計8ルート作成しますが、今回は日数も多い上に男女の予選・決勝の4ルートだけだったので1本あたり3倍くらいの時間がかけられましたね。いつも以上に仕上げてやり尽くした感があったので、あとは見守るだけという心境でした。とはいえ、時間をかけられるがゆえのセットの迷いもありましたし、練習用ルートや予選のパフォーマンスを見て後から手直しは加えました。
 
 

男子は波乱含み
驚愕だったヤコブの完登

 
植田 セッター目線からのお話、大変貴重で面白いです。今度は視点を変え、いちクライマーとして観戦者目線で今回の五輪をどう見たか伺いたいです。まず波乱含みの男子はどう感じましたか?
 
岡野 決勝メンバー自体はまずまず順当でしたよね。ただバッサ・マウェム(フランス)が予選のリードで負傷し、決勝を欠場となったことが波乱の始まりでした。こうなると、スピードの初戦でバッサと当たるアダム・オンドラ(チェコ)が有利だろうとセッターチームでは予想していたのですが、蓋を開けてみれば結局はアルベルト・ヒネス・ロペス(スペイン)の優勝。あらためて3種目複合は何が起きるかわからないと感じました。やはりこのフォーマットは完璧なものではなく、競技をドラマとして捉える分には面白いのですが、選手は大変です。セッターとしても、強い選手を決めるために課題を作っても結果がその通りになるとは限らないですしね。
 
植田 そんな大混戦の中、決勝では最後にヤコブがリードの完登を決めて大いに盛り上げてくれました。ヤコブの完登はセッターチームとしては想定内でしたか?
 
岡野 私も男子決勝ルートは試登しましたが、上部まで行く選手はいても完登は出ないだろうと感じていました。ただ、実は前日に最終パートを少しだけやさしくしてはいたのです。とはいえヤコブの完登はセッターチームにとっても驚愕でした。男子決勝の最後は時間が遅く、他競技の選手も観戦しに来ていたので完登時は会場全体が沸きましたね。
 

男女の予選、決勝を通じて唯一リードでの完登を果たしたヤコブ・シューベルト(写真:松尾/アフロスポーツ)

 
植田 その場に居合わせたかったです。観客が入っていたら、きっとこれまでにないくらい盛り上がったでしょうね。一方で、ヤコブと並ぶリード最強クライマーのアダムは完登できませんでした。
 
岡野 アダムが落ちたところも直前まで修正していたポイントで、あのホールドはかなり悪いです。アダムはフォールした後コーチにチェコ語で「あれは持てない。不可能だ」と話したらしいのですが、それをチェコ語のわかるセッターチームのヤンだけが聞き取ってしまい、あのアダムがそう言ったものだから「まずい。これは誰も登れない……」とかなり焦っていたようです(笑)
 
植田 面白いエピソードですね。ヤコブとアダムの差は何だと考えますか?
 
岡野 セッターの間でもよく話すのですが、ヤコブはアダムと比べても前腕の持久力が並外れていますね。一手一手休みながらでも着実に高度を上げて登り切る力を持っています。
 
植田 日本人選手の登りや結果はどう見ましたか?
 
岡野 楢崎智亜選手はスピードとボルダリングで上位を取って逃げ切ることを目指し、彼の実力ならそのような勝ち方も可能だったかもしれませんが、実際にはリードまで戦いがもつれました。スピードはスリップがありますし、ボルダリングも課題によっては必ずしも強い選手が上位になれない。そんな怖さを私たちも痛感しました。
 
植田 それに比べると、リードは上位選手が安定している傾向があります。
 
岡野 リードはトレーニングの成果が出やすいですし、W杯でもファイナリストのメンバーが固定されている印象があります。パリ五輪は(ボルダリングとリードの)2種目複合になりますが、リードを強みとする選手が安定した成績を出す傾向は変わらないでしょう。楢崎選手はリードにおいて自身の課題が見えたはずなので、パリに向けてどう改善し一段と強くなっていくのか楽しみですね。
 
植田 原田海選手はどうでしたか?
 
岡野 代表選考問題に巻き込まれ、さらにケガもあり相当メンタル的にプレッシャーを受けていたのではないでしょうか。そんな中でも直前のW杯では調子を戻しつつあり、五輪に臨めたことはそれ自体を誇って良いですよね。素晴らしいものを持っているので、この経験を生かしてさらに上に向かってほしいです。
 
 

女子はヤンヤが圧倒
野口の登りにセッターは涙目

 
植田 女子は前評判通りにヤンヤ・ガンブレット(スロベニア)が圧倒的な強さを見せて優勝しました。やはりヤンヤの壁は高かったですね。
 
岡野 ヤンヤは練習ルートで男子上位選手を超える高度を出したり、ボルダリングでも男子が苦労するレベルの課題をサクッと登っていたという話を聞きました。
 
植田 それはすご過ぎます! 男子に混ざっても上位が狙えるのでは(笑)。
 
岡野 一方で本番ではヤンヤの強さが光った反面、完全無欠ではないところも見せました。例えば予選のリードでは他の選手が超えたパートで落ちていました。確かにあのパートは揺さぶりがあるところで少しでも躊躇すると落ちてしまうのですが、いつもの彼女なら余裕で突破するでしょうから。裏で泣いている選手もいたと聞きますし、五輪の舞台はどんなに強い選手でも桁違いのプレッシャーを受けるものなのでしょう。
 
植田 日本人女子はヤンヤに次いで表彰台に2人とも乗り、結果を出したと思います。まず野中生萌選手に関してはどういった見方をしましたか?
 
岡野 得意のスピードとボルダリングで持ち味を出していましたが、それ以上に目を引いたのがリードの成長の目覚ましさです。数年前は苦手種目でもあったリードですが、本番でも予選では上位陣に伍するパフォーマンスを発揮していました。リードの向上が銀メダルに繋がったと言っても過言ではないでしょう。
 
植田 野中選手はW杯も含め、リードの成績は近年本当に安定していますよね。そして野口啓代選手は長い競技生活最後の登りでした。
 
岡野 野口選手は決勝のボルダリングが順位の付きにくい内容だったこともあり、いつものパフォーマンスを出せなかったとは思いますが、そこから気持ちを切り替えてリードに臨めていたのは流石でした。リードの終盤では彼女にしては珍しく一手一手声を出しながら登っていて、最後の競技に懸ける想いがあふれていましたね。
 
植田 野口選手のこれまでの活躍を知る人たちにとっては、現地で観戦していたらたまらなかったでしょうね。
 
岡野 セッターチームはみんな涙目でした。持てる力を出し切っている感がヒシヒシと伝わってきたので。彼女の最後のルートに関われたのは光栄ですね。
 

女子決勝リードで競技生活最後のクライミングに挑む野口啓代(写真:松尾/アフロスポーツ)

 
植田 岡野さんは、選手としてもセッターとしても野口選手とは長い付き合いですよね。
 
岡野 私は覚えていないのですが、彼女が日本で初めて行ったクライミングジムが、私がスタッフをしていた「T-WALL 錦糸町店」らしいです。彼女がトップロープをやりたいと言ったのに、私は「初めての人はダメ」とやらせなかったとか(笑)。
 
植田 そんなエピソードが(笑)。その後は選手として一緒にW杯などにも出られていますか?
 
岡野 2007年の1シーズンだけ一緒にボルダリングW杯を回っています。その年は私が最後にW杯に出場した年で、野口選手が最初にボルダリングW杯に出場した年のはずです。その初戦、彼女の持っていくシューズがボロボロの一足だけだったのに驚きました。しかもロストしてしまう可能性もあるのに機内持ち込みにせず、預け荷物。でも彼女は表彰台に乗りきちんと結果を出し、すでに選手としてのピークが過ぎていた私は予選落ちだったので何も言えませんでした(笑)。
 
植田 面白い!(笑)。繊細かと思いきや、そういった大胆な一面もあるのですね。
 
岡野 ある程度そういった豪快さがないと、世界では勝ち続けられないのだと思います。コンペがこれだけ続くと、良い意味で忘れたり、切り替えたりすることが必要なのでしょう。
 
 

五輪での競技採用の意義
クライミングの奥深さを知ってほしい

 
植田 最後になりますが、東京五輪にスポーツクライミングが採用され、多くの方々に観戦してもらったことにはどんな意義があったと感じますか?
 
岡野 これまでクライミングを見たことのない方が競技を観て、「面白かった」「すごかった」と言ってもらえるのは単純にうれしいです。それだけでもやって良かったと感じますし、業界にとっても開催した意味はありましたよね。さらには、これを機に競技だけでは伝わらない、スポーツクライミングのバックグラウンドにある岩場のフィールドまで含めた奥深さを知ってもらえる人が少しでも増えたら良いなと思います。
植田 岡野さんは今後、クライミング業界とどのように関わっていきますか?
 
岡野 今はまだ、あまり具体的には考えていないです。セッターは引き続きやっていきますが、それ以外にも今までにない関わり方を少し模索しています。ただ今は体中が痛いので、とりあえず休もうかなと思っています。
 
植田 たっぷりと休んでください。今後の岡野さんの活躍にも期待しています。本日はありがとうございました。

CREDITS

植田幹也 / 写真 AP/アフロ

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PROFILE

岡野寛 (おかの・ひろし)

1974年6月24日生まれ、香川県出身。国内に数人しかいない国際資格を持つルートセッター。国内外の大会でチーフを務め、東京五輪では唯一日本人としてIFSC派遣セッターに名を連ねた。元代表選手で、02年レッコ大会では日本勢初のボルダリングW杯表彰台(3位)を果たした。(写真:鈴木奈保子)

PROFILE

植田幹也 (うえだ・みきや)

1986年11月17日生まれ、東京都出身。クライミングを日々追究する人気ブログ『Mickipedia(https://micki-pedia.com/)』管理人。東京大学卒業後、魅せられたクライミングのためにサラリーマンからジムスタッフに転身。博識ぶりに定評があり、記事執筆から大会の実況解説、最近ではYouTubeでも活躍中。

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