FEATURE 82

THE LEGENDS

コンペ30年史に名を刻むレジェンドクライマーたち[序章 – 1990年代]


岩場での冒険的な挑戦にルーツを持つクライミングが今、こうして誰もが楽しめるスポーツへと進化する過程には、その文化や魅力を伝え広めてくれた名クライマーの存在があった。1989年のクライミングW杯(ワールドカップ)創設から30年。世界各国から数々の強者が現れては大会を盛り上げ、スポーツクライミングは競技として確立、ついにはオリンピック競技に採用されるまでになった。そんなコンペ史に残る「伝説」の選手たちを、W杯や世界選手権の変遷とともに振り返ろう。

※本記事の内容は2020年6月発行『CLIMBERS #016』掲載当時のものです。
 
 

1989年のW杯誕生から…
継承、進化を続けたスターの歴史

 
 クライミングW杯の歴史の始まりは、30年以上前にさかのぼる。1970年代後半には岩場のルートを用いたコンペである「岩登り競技会」がヨーロッパを中心に開かれ、日本でも行われていた。1980年代後半には岩場ではなく、室内壁を使った現在のリード競技に近い形のクライミングコンペが各国で開催され始め、国際ルールの統一やスケジュールの統括などが徐々に求められるようになる。そうした背景の中、国際山岳連盟(UIAA)に属するクライミングコンペ小委員会(のちに独立して現在の国際スポーツクライミング連盟=IFSCになる)が1988年のトライアルを経て、翌年にシリーズ戦形式でのW杯を開始。スポーツとして大衆化し、オリンピック競技を目指すという意図もあっただろう。
 
 当初はリード競技がメインで、現在日本で最も人気のあるボルダリングは、クライミング黎明期にはリードの練習という位置付けであった。しかし岩場でもボルダリングで高難易度を追い求めるクライマーが現れ始めるなど徐々にそのジャンルを築いていき、1999年にはW杯にボルダリング競技が追加される。ロシアを中心に古い歴史を持つスピード競技は、大会ごとに異なるルートを使用するなど今とは随分と違った形式(クラシックフォーマット)で行われており、ボルダリングより1年早い1998年にW杯種目の仲間入りを果たすと、2008年に現在のような常に同一ルートで競うレコードフォーマットが確立された。
 
 このような歴史の中で、多くのレジェンドたちが大会を盛り上げてきた。W杯誕生から1990年代あたりまではフランス勢が圧倒的に強く、男子ではフランソワ・ルグラン、女子ではイザベル・パティシエらが中心選手となる。日本の平山ユージは、この時代において2度の年間優勝を果たすなど、世界にその実力を知らしめた。
 
 2000年代に入るとフランス以外の欧米諸国が徐々に台頭。とりわけオーストリアは男子でキリアン・フィッシュフーバー、女子ではアンゲラ・アイターやアンナ・シュテールをはじめ、ボルダリングでもリードでも次々にスターを輩出し、一躍コンペシーンの中心国に躍り出る。
 
 2010年代前後はクライミング強豪国の一角にアジアが名乗りを上げた時代。特にボルダリングにおいて野口啓代は世界のコンペシーンで最も活躍した日本人選手となった。リードでも韓国のキム・ジャインや日本の安間佐千が登場。そして2018年からはオリンピックを見据えて世界選手権でコンバインド種目(3種目複合)のフォーマットが確立され、チェコのアダム・オンドラ、スロベニアのヤンヤ・ガンブレット、日本の楢崎智亜といった総合的なスポーツクライミングの能力に秀でた選手を中心に新世代のスターたちがコンペを盛り上げている。
 
 大会を観戦すれば、誰しもが超一流クライマーの強さや美しい登りに憧れることだろう。現在、最前線で活躍する選手たちもまた同様に、今ではレジェンドとして語り継がれる当時のトップクライマーに影響を受け、その高みを目指してきたのだ。
 
 

【1990年代】
コンペ黎明期を支配したフランス勢
アーベスフィールドや平山が孤軍奮闘

 ここからは、年代ごとに詳しく解説していきたい。先ほど述べたように、UIAA(国際山岳連盟)は前年のトライアルを経て1989年にクライミングW杯を開始する。当時は大会によってルールが異なったり、運営に不備が見られ、選手から不満の声も数多く上がっていたようだ。例えば、保持や「+」の概念がなく単純に高いところを触った選手が勝ちというルールのため最後にランジをする者が続出するなど、洗練されていない面もあった。
 
 それでも、W杯は初年度から欧米諸国を舞台に全7戦で競われるシリーズ戦として機能し、各大会での上位者にポイントが付与されて年間優勝者も表彰された。現在のそれとは違うクラシックフォーマットのスピード種目が行われた大会もあったが、フリークライマーたちが出場するメイン競技はやはりリードであった。そして1991年には、シリーズ戦のW杯とは位置付けが異なり、2年に1度の開催でより格式の高い世界選手権が誕生する。
 
 この時代、ほとんどのクライマーたちの主戦場は岩場であったが、90年代前半あたりまでは彼らもコンペに参戦していた。男子ではドイツのシュテファン・グロヴァッツ、イギリスのジェリー・モファットやベン・ムーン、アメリカのロン・カウク、女子ならアメリカのリン・ヒルなど、岩場の記録が今なお伝説として語り継がれるようなクライマーたちもコンペで好成績を残した。そこから徐々にコンペで結果を出すことを主眼に据えるクライマーも登場し始める。フランスのフランソワ・プティはその筆頭で、トレーニングを岩場ではなく主に室内壁で行い、W杯年間優勝や世界選手権優勝など輝かしい成績を収めた。
 
 プティのみならず、90年代はクライミングの歴史が深いフランス勢がコンペで上位に居座り続けた時代だ。例えば、男子リードでは1990年から2003年まで14シーズンのW杯年間王者が、平山ユージを除くとすべてフランス勢だった。中でもフランソワ・ルグランはクライミングコンペ黎明期にありながら、考え抜かれたクライミング理論と洗練された身のこなしを武器に大躍進。ルートの手順をすべて見通したようなパフォーマンスや、そのどこか孤立的な性格から“クライミング・サイボーグ”とも呼ばれ、W杯年間を5度、世界選手権を3度制覇して一時代を築いた。ルグランは常に、同世代のライバルである平山の前に大きな壁として立ちはだかったのだ。
 

写真:飯山健治

一時代を築いた“求道者”
【フランソワ・ルグラン】
1970年3月26日、フランス生まれ。強靭なフィジカルとクライミングをとことん追求する姿勢から得たムーブの引き出しの多さを武器に、W杯年間を5度、世界選手権を3度制したコンペ黎明期の生ける伝説。平山ユージとは南仏で共同生活を送り、練習をともにするなど長年にわたって切磋琢磨し合った。
 
平山ユージが語る「フランソワ・ルグラン」
「『すごいヤツがいる』。フランソワとの出会いは1988年、南仏ビュークスの岩場でした。体の芯が強靭で、ホールドを取る時も足を置く時もブレが少ない。翌年ドイツでの大会で再会し、コンペ後のパーティーでお酒を飲めない者同士で意気投合。『一緒にトレーニングするか!』とそのまま南仏に向かって一緒に住むアパートを探したことを覚えています。彼はクライミングのことを誰よりも考えていました。当時のクライミングにおいて可能な動きはすでに頭の中で解明されていて、彼のポケットにはムーブの引き出しがすべて用意されていたと思えるほど。僕も理詰めで登るタイプだと思っていたけど、それが薄っぺらいと感じるくらいでしたね。昔は感情を抑えられないところもあって、周囲とよくぶつかっていました。世の中にはあまりフィットしない性格で、求道者のような感じ。現代で彼みたいなクライマーは見当たらない、唯一無二の存在ですね」
 

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 女子でもやはりフランス勢が目立ち、90年代初頭はイザベル・パティシエ、後半になるとリヴ・サンゾなど岩場でもオールラウンドに活躍するクライマーがコンペシーンに登場。特にサンゾは細かいホールドでのクリンプ能力に長け、ボルダリングでも圧倒的な強さを見せた。この時代にフランス勢を凌駕する成績を残したのはアメリカのロビン・アーベスフィールドで、W杯年間王者に4度君臨し、世界選手権でも優勝を経験。彼女は同時代に活躍したディディエ・ラブトゥと結婚し、その子供は現在気鋭の若手クライマーとして注目されているショーン・ラブトゥとブルック・ラブトゥだ。今では最強のクライミング一家を築いている。
 

写真:飯山健治

数々の伝説を残すクリンパー
【リヴ・サンゾ】
1977年2月12日、フランス生まれ。ショートヘアがトレードマークで、高いクリンプ能力によって90年代半ばから00年代初頭まで活躍。リードでW杯年間3度、世界選手権2度の女王に輝く。アルピニストとしても有名で、近年には欧州アルプス標高4000m級の山々82峰を完全制覇する偉業を達成した。
 

写真:飯山健治

仏勢を制したアメリカの女王
【ロビン・アーベスフィールド】
1963年8月8日、アメリカ生まれ。90年代に当時有力だったフランス勢を凌駕してW杯年間4連覇を果たす。競技引退後はジュニア向けのクライミングジムを設立し、メーガン・マスカレナス、マーゴ・ヘイズ、実娘で東京五輪内定のブルック・ラブトゥら岩場、コンペ両方で活躍するクライマーを指導。
 

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 表彰台のほとんどを欧米諸国が占める中、日本のみならずアジアを背負って孤軍奮闘したのが平山ユージである。80年代後半から頭角を現した平山は、1991年に東京の原宿で開催されたアジア初開催のW杯で記念すべき初優勝。フランスにクライミング活動の拠点を置き、ルグランらと切磋琢磨してさらなる飛躍を遂げ、1998年と2000年に2度のW杯年間優勝を果たす。加えて、岩場でもアメリカ・ヨセミテの大垂壁「サラテ」のオンサイトチャレンジ(1997年)をはじめ今の時代であっても最先端と評価されるクライミングにまい進し、世界的なレジェンドとしての地位を確立した。
 

写真:飯山健治

日本が誇る“世界のヒラヤマ”
【平山ユージ】
1969年2月23日、東京都生まれ。日本を代表する世界的クライマー。無駄のない登りは“芸術的”と評される。世界に衝撃を与えたヨセミテ「サラテ」のオンサイトトライ(97年)はあまりに有名で、コンペシーンでも98、00年にW杯年間優勝を成し遂げた。人望が厚く、現在は日本山岳・スポーツクライミング協会の副会長を務める。
 
コンペ30年史に名を刻むレジェンドクライマーたち[2000年代]に続く
 
【1990年代 優勝者一覧|W杯&世界選手権】
 

 

CREDITS

植田幹也 / 構成 編集部 / 写真 飯山健治 / 窪田亮 / アフロ / アフロスポーツ / PanoramiC/ AFLO

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