FEATURE 57

平山ユージのSTONE RIDER CHRONICLE

[第8章]第二の人生、みんなのBase Campを作ろう

人が集まる場所を作りたい

一人の山好き少年が“世界のヒラヤマ”になるまで――。平山自身が半生を辿る特別連載の8回目は、欧米の岩場を巡った30代を経て、2010年7月のジム誕生に至る裏話を。

※本記事の内容は2018年12月発行『CLIMBERS #010』掲載当時のものです。
 
 
 世代交代の波が押し寄せるコンペの世界に区切りをつけ、再びビッグウォールと向き合った30代。世界最難クラックの一つ、カナダ・スコーミッシュの「コブラクラック」をレッドポイントした2009年には40歳を迎えていた僕が、次なる目標を実現させるのは翌年のことだった。
 
 その数年前、いやW杯で初優勝した(1998年)20代の頃から、“第二の人生をどう生きていこう?”と模索はしていた。他のスポーツと同様、プロとしての寿命はそう長くない。ただ、何で勝負できるか?と考えた時、自分にはクライミングしかない。そんな僕に一つのきっかけをくれたのは、あるアメリカ人と台湾人のご夫婦だった。自宅の近所でカフェを営む2人が「クライミングジムをやったらどうか」と助言をくれたのは2007年。漠然としていた道が、本当にそれから具現化していくのだ。
 
 とはいえ、当時の僕には何のアテもお金もなかったのだが、欧米で様々なジムを見てきたことでアイディアはあった。00年代に何度も遠征したアメリカでは、友人のクライマーであり、現地のジムで役員もしていたハンス(・フローリン)君に案内され、ジム運営のいろはを教えてもらったりもした。でも、自分が登っていて一番楽しかったのは日本のジム。一つの壁を最大限に活用する工夫が施され、ホールドがずらっと並んだ(これは欧米にはないものだ)ボルダー壁では、自分で選択して課題を作っていける。トレーニングのバリエーションが無限に広がるのだ。欧米と日本、それぞれの良い点を組み合わせたジム、それが理想だった。
 
 加えて意識したのは、岩場っぽさ。例えばリード壁の場合、ボルダーのようにホールドの密集感はありつつも、一目ではっきりラインがわかった方がいい。実際の岩場でもそうで、いざ登る時にラインが視覚的に入ることは重要である。現在では当たり前となったウォール上の配色でコース取りを示すジムのスタイルは、僕らが日本で最初にやったものだ。
 
 そしてもう一つ、何より強かったのが、人が集まる場所を作りたいという気持ち。いろんな人が集い、そのエネルギーに満ちあふれ、新しい発想が生まれるような空間だ。そんな思いや試みが、みんなの心にも響いてくれたことで、僕らのジムはいいスタートを切れたのだと思う。振り返れば、苦労と言えるのは銀行との闘いくらいかもしれない。今のようにジムがない時代、融資が下りるか否かの攻防戦は難儀なものだったのだ!
 
 こうして埼玉・入間に誕生した『Climb Park Base Camp』は2018年、8周年を迎えた。当初のコンセプトはそのままに、時代に合わせてマイナーチェンジを続け、お客さんと一緒に成長してきた。“面白いことやってるね!”って日本中、世界中のクライマーから常に注目される存在でいたい。クライミング界が数年で激変したように僕らの立場も変わっていくだろうけど、そう願って付けた名の通り、みなさんにとって日々の
生活の中で癒しの場になる、そして何かを生み出す発信地となる、根をしっかり張った“みんなのBase Camp”でありたいと思っている。
 
~第9章へ続く~

CREDITS

取材・文 編集部 / 写真 永峰拓也 / 撮影協力 Climb Park Base Camp

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PROFILE

平山ユージ (ひらやま・ゆーじ)

10代で国内トップとなり渡仏、98年(日本人初)と00年にワールドカップ総合優勝を達成する。02年にクワンタム メカニックルート(13a)オンサイトに成功、08年にヨセミテ・ノーズルートスピードアッセント世界記録を樹立するなど、長年にわたり世界で活躍。10年に「Climb Park Base Camp」を設立した。

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